旧東独の勝者と敗者

 

 私が住んでいるミュンヘンでは、旧東独出身の市民に会うことが多い。食堂でウエイトレスとして働いている人もいるが、大企業の重役の座に上りつめた人もいる。彼らは概して非常に勤勉であり、資格の取得や留学に余念がない。特に数学や自然科学を勉強した人は成功している。社会主義時代の東独では、自然科学や数学の教育レベルが高かったのである。

 ドイツが統一されてから20年。この期間に改善されたことは多い。旧東独市民一人あたりの国内総生産(GDP)は、1991年から2007年までに約3倍に増えた。毎月の可処分所得も、595ユーロ(約6万5000円)から2倍に増えて1224ユーロ(約13万円)になった。かつては不可能だった西欧への旅行も、自由にできるようになった。労働生産性も着々と向上している。 

 だが旧東独市民の間では、勝ち組と負け組の区別が次第に鮮明になりつつある。ベルリンの壁が崩壊した時に学生や子どもだった市民の多くは、新しい社会にうまく適応して成功を収めた。彼らのほとんどは、旧東独ではなく旧西独に移住して職を見つけている。

 統一直後、旧東独では国営企業が次々と倒産したが、西側の企業は政府が予想したほど旧東独に投資しなかった。旧東独の賃金が急速に引き上げられたため、アジアや中東欧の国々に比べて競争力が弱くなったからである。「旧東独は花咲く野原のように栄える」というコール元首相の予言は外れた。彼は西独企業が旧東独に積極的に投資しないことに地団駄を踏んだが、政府と企業の論理は別である。旧東独では本社を持つ企業が旧西独に比べて育っていないことも、雇用の拡大を阻んだ。一時この地域の失業率は20%近くなった。

 人生は一度きりしかない。若い旧東独人たちは、東側の経済状態が回復するのを待たずに、新天地を求めて西側に次々に移住した。娘2人だけでなく、両親も揃ってミュンヘンに移住してきた家族を知っている。この結果、旧東独の人口は1991年から2003年までに120万人も減った。実に6・6%の減少である。同じ時期に旧西独の人口は6%増えている。この人口流出は今も続いている。2003年から2008年までに、ザクセン・アンハルト州の人口は5・6%、テューリンゲン州の人口は4・4%減少した。このため旧東独の市民の平均年齢は急激に上昇している。

 しかし壁が崩壊した時に国営企業で働いていた40歳以上の市民、特にリストラされてもまだ年金を受給できる年齢に達していなかった市民にとって、統一後の暮らしは茨の道だった。西側企業に数十回履歴書を送っても、就職先が見つからない市民は珍しくなかった。社会主義時代の東独では労働力が不足しており、無料の託児所が普及していたため、就業が可能な年齢にある女性は、ほぼ全員が働いていた。西独では全く事情が違う。このため旧東独で働いていた女性は、特に就職難に苦しんだ。

 ドイツ政府は、1990年から2009年までに1・6兆ユーロ(約176兆円)という天文学的な資金を旧東独に投入した。毎年GDPの5%が旧東独経済の再建に注ぎ込まれていることになる。それでも政府は、旧東独に勝者だけでなく敗者も生まれることを防ぐことはできなかった。東独が資本主義経済に組み込まれた以上、市民の間に格差が広がる運命は避けられなかったのである。年配の東独市民たちが西独マルクを手にして歓喜の声を上げた時、彼らの内の何人が、今のような状況を予想しただろうか。経済学者の間では、旧東独が当分の間、イタリア南部のように中央政府からの経済支援に依存し続けるという悲観的な予測も出ている。

2011年1月 週刊ドイツニュースダイジェスト再掲